2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」          入江幸男

           第5回講義(2007年11月7日)

 


       §5 フィヒテの知識学 観念論を徹底するとどうなるか?


 

1、フィヒテ知識学の変説とその理由

 フィヒテ知識学の解釈において最も重要な論争点になってきたのは、その変説(?)をどのように理解するか、ということであった。

 

 まずその変化の重要なポイントをまとめてみると次のようになる。

■知識学の変化のポイント

(1)初期知識学(イエナ期)

   知識学は、「学問の理論」(学の基礎付け)である。

   自我を出発点にして経験を説明する。

自我ないし事行を出発点にして、それが成立するための条件、あるいはその成立を説明するための条件として、自然の認識や行為を演繹する。

(2)中期知識学

   知識学は、「知の知」と定義されるようになる。

絶対知を出発点にして、全経験を説明する。

ただし、絶対者の存在を最初から前提することはない。

(3)後期知識学(ベルリン大学期)

    知識学は、「知の知」である。

知識学は、絶対者=存在=生から出発する。

    知は、絶対者の像ないし図式として捉えられる。

 

この変化の理由としては、これまで次のような理由が指摘され来た。

知識学の変化の理由

外的理由1:無神論論争

外的理由2:シェリングとの論争

外的理由3:ヤコービからの「ニヒリズム」であるとの批判

内的理由1:感性界と叡智界の綜合に取り組んだ。

 

 私は、これまで次のような内的な理由もあげることができるだろうと考えてきた。

内的理由2:決断と知的直観の矛盾。

内的理由3:他者論をきっかけに、「理性的存在者の体系」や「絶対知」の考察へ向かう。

内的理由4、道徳法則の究極目的として、理性的存在者の道徳的秩序(の根拠)=神=生=絶対者の想定へ

 

 しかし、現在はこの変説問題に関して、次のように考えている。

■フィヒテ解釈についての私の提案

<フィヒテは、おそらくこれまで誰も考えていなかったほど非常に徹底的で純粋な仕方で観念論を考えていた。徹底的で純粋な観念論を追究することによって、フィヒテの知識学は自我から出発する前期の知識学から、絶対知(ないし絶対者)から出発する後期の知識学へ変化したのである。前期知識学から後期知識学への変化は知識学の確かに根本的な部分にかかわる変説である(絶対者の想定は存在論における根本的な変説である)が、しかしその原因は彼の特異な観念論の理解にあり、その観念論の理解そのものは、前期から後期にかけて一貫していた。そして、その特異な観念論は、唯一人間の自由を説明できる哲学であった。>

 

2、観念論の徹底から「絶対知」へ

徹底的な「観念論」理解が、後期の知識学に発展していくことを、ここで指摘しておきたい。前回述べたテーゼ<知が存在するとは、その存在することが知られることである>を認めて、知xの存在もまた知られなければならないとしよう。知xとその存在の知yが同一ならば、xは自己自身についての知でもあることになる。では、xとyが別の知であるとしたらどうなるだろうか。そのときには、知xの存在が、知yの内容として表象されるだけでなく、xの存在そのものが知yの内容に還元されるになる。なぜなら、もしxの存在とyの存在が独立しているのだとすると、xの存在はyによって知られるが、しかしyがそれを知らないときにも、xはyとは独立に存続することになる。これは、<知xが存在するとは、知xの存在することが知られることである>という仮定と相容れないので、受け入れられない。従って、もし知xと知yが別の知であるならば、知xは 知yの内容として存在するにすぎないのである。つまり、この場合に存在するのは知yだけであって、二つの知xとyとか同じ実在性をもって並存するのではない。さらに、この知yの存在についても同様の議論を行うことができる。知yの存在についての知は、知yそのものの自己知となるか、あるいは別の知zである。そして後者ならば、そのときには知yは知zの内容として存在するのであって、真に存在するのは知zだけである。

同様のことをすべての知について議論するとき、すべての知は、ただ一つの知の内容として存在し、その唯一の知の存在を知るのは、その知そのものであるということになる。それは次のような理由による。もし二つの知xとyがあって、それぞれが自己の存在の知でもあるとすると、そのとき二つの知の関係は、どちらの知によっても知られていないことにある。しかし、上記の純粋な観念論からすると、知の関係が存在するとすれば、それはやはり何らかの知によって知られている必要があるだろう。その知がxでもyでもないとすると、それは別の知zでなければならない。知xと知yの関係が知zの内容になるとき、知xと知yの存在自体もまた知zの内容に還元されるのであり、存在するのは知zだけであることになる。このような議論を繰り返すと、唯一の知が存在することになる。


このような唯一の知は、後期知識学における絶対知=知的直観についての説明と一致する。フィヒテが前期知識学において「知的直観」を想定せざるを得ないと考えた論拠は、<存在するとは知られることである>という考えにあり、その考えを、知の存在や、知と知の関係の存在にも徹底して適用することによって、彼は後期知識学の絶対知の理解に到達した、というのが我々の解釈である。
 
3「知識学の叙述」1801の「絶対知」
 
「知識学の叙述」(1801)からのページ数は、Immanuel Hermann Fichte 編のFichtes Werke、第2巻のページ数、訳文は金子栄一訳『知識学の叙述』(創文堂、1967)を参照。
 
「第一部、序文 知識学の概念」からの抜粋引用。
§1 知の構成を媒介とする知についての予備的記述
 
「何でもいいから一つの角を引きたまえ、――もし我々が読者と対話しているとしたら、我々はこう彼に呼びかけるであろう。--さて、こうして画かれた角を、第三の直線で閉じたまえ。君は、実際に角を閉じたその線のほかに、なお一本の、あるいは幾本かの(つまり、より長い、もしくはより短い)線でその角を閉じる事も出来たかもしれないとかんがえるだろうか。――もし彼が、我々の期待するように、決してそうは考えないと答えるならば、我々はさらに次のように質問するだろう。
彼はそれを、自分の個人的な、ひょっと思いついた、そしてさらに改正されることももちろんありうるような、そういう意見だと思うか、それとも自分はそれを知っている、まったくか実に間違いなく知っている、と信ずる科。もし彼がこの質問いたいして、我々の今度も期待するように、肯定的にこたえるならば、我々はさらに彼に問うであろう。・・・」SWII, 4
 
「上述の命題が、無限に可能な角についても、無限に可能な理性的存在者に対しても共に絶対的に妥当するということを自分は端的に確信すると彼が答えるならば、我々は彼と共にさらにそれにつづく諸考察をこころみるであろう。」SW, 4
 
「それでは、いったい、この知は本来何の上にやすらっているのであろうか。この確固たる立場、それの揺るがぬ客観は何なのであろうか。」SWII, 5
「まず第一に、・・・彼は今回の線を引く作用を、そもそも今回のものとしてはまったく問題にしてはならなかった。」SWII, 5
「次に、彼は、上述の命題は、いやしくもその命題が言い表されている言葉を理解する全ての理性的存在者に端的に妥当すべきであった。かくして、読者は、もし彼の上述の知の主張が根拠あるものであるべきならば、この個人としての自己や、自己の個人的判断をまったく問題としてはならず、すべての理性的存在者の判断を問題とし、それを一瞥を持って見渡さなければならず、自己の心のからして全ての理性的存在者の心を洞察せねばならなかったのである。」SWII, 5
「さらに、また、上述の命題は、ただ彼に対してのみでなく、いやくしくもその命題が言い表されている言葉を理解するすべての理性的存在者に端的に妥当すべきであった。かくして読者は、もし彼の上述の知の主張が根拠あるものであるべきならば、この個人としての自己や、自己の個人的判断をまったく問題としてはならず、すべての理性的存在者の判断を問題とし、それを一瞥をもって見渡さなければならず、自己の心からしてすべての理性的存在者の心を洞察せねばならなかったのである。」SWII, 5
 
「かくして、もし上述の知の主張が根拠あるものであるべきならば、彼は決して自分の判断のあらゆる時間において、すなわち絶対的に無時間的に見渡すのである。一言で言えば、読者は、一切の表象 ―― もちろんそれは、我々が検証した対象に関してではなるが、―― を端的に一瞥をもって見渡し、把握する働きをみずからに帰するのである。」SWII, 6
 
「知とは、ある表象をその総体性において端的に一瞥をもって把握する作用である。」SWII, 6
 
ここでの「知」の理解は、フレーゲが、思想は客観的に存在しており心理学的な表象とは別の存在であると考えたこと似ていないだろうか。幾何学の思想は、一つである。しかしそれを各人が理解するとき、その理解は、人間の数だけあるとしたら、その関係が問題にならないだろうか。
 
§3  知の知としての知識学の記述
<知識学の定義>
「知識学は、言葉の結合から示されているように、知の教説、知の理論であり、これは、知の知にもとづき、知の知を生み出す理論である。」SWII,
「それ[知識学]は、知の知である。二点間に線を引くことに関する上述の端的な知が無限に異なった線を引く場合に対する関係は、知の知がこの知に対する関係に等しい。その際、この単なる知といえども、当然多様なるものの見解を与えるには相違ないが、しかし、それは端的にただ一瞥のうちに総括されるであろう。」
 
「知の知」とは、先の幾何学の知がもっていた普遍的な妥当性、あるいは普遍的な規則性の一事例であるという直観、についてのメタレベルの知である。
この角を閉じる線は一つである知(直観) : 無限に異なる線を引く(知覚)
                 = 知の知 : 知
 
§4 諸帰結 (知識学=知の知=直観の直観=絶対知
「直観」とは、「一目で多様を取りまとめること ein Zusammenfassen eines Mannigfaltigen  durchaus mit einem BlickeSWII, 7である。
「一切の知は直観である。従って知の知も、それ自身知である限り、直観であり、またそれが知の知であるかぎり、一切の直観の直観である。」SWII, 9
「直観はそれ自身絶対知である。」SWII, 9
知識学は、それ自身絶対知であるSWII, 9
「知の知である知識学は、諸命題の体系ではなくて、唯一不可分のBlickである。」SWI, 9
「知識学は認識の体系ではなくて、唯一の直観であるにもかかわらず、この直観の統一自身は決して絶対的な単一性ではなくて、・・・一つの有機的統一であるということ、すなわち多様なるものの統一への融合であると同時に、統一の多様なるものへの流出であろう。」SWII, 10
「人は知識学を持つのではなく、知識学である、誰も彼自身が知識学になる以前には、知識学を持たない。」SWII, 10
 
ここでの「知識学」は直観であり、もはや『知識学の概念』で考えられていたような命題の体系ではない。
 
 
4 後期における決断主義の放棄
 以上のように、前期知識学の中にあった「観念論」概念の徹底化によって、『知識学の叙述』1801では、知識学は、学問の理論という従来の定義から、「知の知」とか「知の理論」と定義されるようになり、唯一の普遍的な知である「絶対知」の考察から出発することになる。さらに、絶対知の根拠として「絶対者」が想定されるようになる。このように、フィヒテの知識学がある意味では、根本的に変化するとき、最初にのべた初期のフィヒテの基本的な立場、つまり<整合的な哲学の立場としては、観念論と実在論しかないが、理論的には選択できないので、決断によって観念論を選び取る>という立場もまた変化する。
彼は、『知識学の叙述』の第一部の終わりで観念論と実在論の対立に触れるが、そこではもはや信仰によって知識学を基礎づけようとはしていない。彼はまだ『人間の使命』(1800)では「信仰」(=知を妥当させる決断)による立場の選択を考えていたのだが、『知識学の叙述』からは決断による観念論の選択を主張しなくなる。では、なぜこのように変化したのだろうか。
 その理由は二つ考えられる。一つの理由は、決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっているということである。上に述べたように、事行と個人の自己意識との区別がはっきりすることによって、知識学は、個人の自我からでなく、個人を越えた知としての「絶対知」から出発することになる。そして、個人的自我は、「理性的存在者の体系」の中で成立することが明言されるようになり、個人の自由もまた「無限の自由」の内部でのみ成立するのである(GAII/6, 305)。したがって、個人の決断もまた「理性的存在者の体系」の中で可能になるのである。個人の決断がこのようなものであるとき、絶対知を捉えるために重要なのは、個人の決断より、むしろ決断の放棄ないし個人の自立性の放棄になるだろう。
もう一つの理由は、『知識学の叙述』の第二部で述べているように、フィヒテは、スピノザと同じく、「絶対的実体」(GAII/6, 227, SWII,88)を認めるようになるという変化である。つまり、「知識学の第一序論」では、観念論と実在論には共通するところが、「一点もなく」、それゆえに互いに議論することが不可能であった。しかし今やフィヒテは、スピノザとの間に、絶対的実体を認めるという共通点を持つ。共通点が少しでもあれば、それを出発点にして、議論を開始することが可能になる。もちろん、その議論によって、どちらの体系が正しいかを必ず理論的に決定できるようになるとは限らない。しかし、理性的な討論による決着の可能性は生まれたといえる。このように絶対的実体(あるいは、絶対者、存在)を認めるという点においては、スピノザと一致していることをフィヒテは、その後の後期知識学繰り返し認めるが、その絶対者と知の関係の捉え方に関してスピノザとは異なることを強調する。つまり、独断論とは議論が可能であり、フィヒテ自身は、スピノザを理論的に論駁できたと考えている。
以上の二つの理由で、フィヒテは、決断主義を取らなくなるのだと思われる。こうして、フィヒテの最初の基本的な立場もまた、大きく変化したのである。